4-5年後に来る本帰国、子供は小学生入学前、どこに住もうか色々悩みます。
- 都内の職場に近いとこが良いんだろうなと思いますが、学区はどうしようとか
- 小中高が公立なら都内でない方がよいなど、
- 都会過ぎない方がよい、自然が多い方が良いなど、、
帰国する頃には、本当に柔軟なフレックスタイム制、週に数回は在宅勤務が可能になるような環境になっているかもしれません。
昔から自然豊かなところで育てるべきと強く思っていたので、自分の父親のように郊外に住み頑張って通勤するかなと思っていたのですが、下記の興味深いブログ記事を見つけて色々考えさせられたので、記事内容をメモしました。
子供をのびのび育てられる、ぞんぶんに自然に触れる機会を与えられる、運動量が増えてたくましく育つ、待機児童問題とは無縁なので、共働きでも保育園難民になることがない、などだ。
だが、そういったメリットを遙かに凌ぐ難点が、子供を持つ世帯の地方移住には潜んでいると思う。おもに子供が中学生以上になったときだ。
高校の選択肢が少ない。通える範囲にある高校で公立に絞るのであれば、せいぜい3、4校の中から選ぶことになる。
4校の中で選ぶとなれば、たとえばこうだ。地域のトップ校、二番手校、三番手校、三番手校と同レベル程度の専門学科高校(工業・農業等)といったところだ。
田舎の自然のなかで、のんびり、おおらかに子どもを育てたい、というのも、「親の自己満足」になる可能性があるのです。
『下り坂をそろそろと下る』 (平田オリザ著/講談社現代新書)のなかで、平田さんは、今後の日本の「教育改革」においては、ペーパーテストではなく、「受験準備ができない設問」(たとえは、グループディスカッションや、社会問題に対する提言力を問うような問題)が重視されていくはずだと述べています。
そうなると、有名進学塾に通えない、田舎の子どもにも「平等」になるのではないか?と僕などは考えていたのですが、実際は、そうはならないのです。要するに、いまの流行り言葉で言えば「地頭」を問うような試験に変わっていくということだ。
これは、短期間の、知識詰め込み型の受験勉強では対応できない。小さな頃から、文科省も掲げるところの思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、恊働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。
こういった能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉で言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である。
(中略)
この身体的文化資本を育てていくには、本物に多く触れさせる以外に方法はないと考えられている。
それはそうだろう。子どもに美味しいものと不味いものを交互に食べさせて、「どうだ、こっちが美味しいだろう」と教える躾はない。美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。
骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ。理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ。
しかし、そうだとしたら、現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか。東京、首都圏の子どもたちは、本物の(世界水準の)芸術・文化に触れる機会が圧倒的に多い。
もう一点、この文化資本の格差は、当然、貧困の問題とも密接に結びついている。
たとえば、いま全国の小中学校で「朝の読書運動」が広がっている。教員は生徒たちに、「何でもいいから本を持って来なさい。どうしても本が難しければ、はじめは漫画でもいいよ」とやさしく声をかける。
しかし現実には、家に一冊も本がないという家が、多く存在するのだ。これなどは端的に分かりやすい文化資本の格差である。
(中略)
文化の地域間格差はどうだろう。「地方の子どもは芸術に触れる代わりに、豊かな自然に触れている」というのは、やはり詭弁に過ぎないのではないか。
自然に触れて、のびのび育つことができる、とは言うけれど、田舎の子どもたちは、学校の統廃合で通学に時間がかかるためにバス通学になって、自然に触れる時間が増えているわけではないそうです。
いくら自然に触れていても、それを「表現する能力」がないと、いまの社会では評価されないのではないか、と平田さんは仰っています。
冷徹なようだけれど、僕も、そのとおりだな、と思うのです。
結局のところ、「自然のなかで、のびのび育つ」ことを美化する人は多いけれど、それが「長所」として役立つ場面というのは、少ないんですよね。
自然と触れ合うことは不要、というわけではないけれど、「文化資本」のことを棚上げにして、田舎=心が豊か、というのは、あまりにも短絡的な考え方です。
「田舎のよさ」を世間にアピールしているのは、「それを語る言葉を持った都会人たち」なわけですし。