90s生まれミレニアル世代のメモ帳/備忘録

アメリカ東海岸の片隅から、読んだ記事や本で気になった箇所をメモするブログ。

英語の身体化の話 - 20年以上のの在米生活の後、仕事と日常生活以上には英語が身体化していないことを再認識した。 今は残念な状態だが、これからでも遅くはない。地道に積み上げていこうと思う

ちょうど30年前、高校2年の夏休み。 親に懇願してロンドン近郊の英語サマースクールに約一ヶ月参加した。 それまで旅行を含めて海外経験はゼロ。 16歳の純国産坊やが単身ブリティッシュ・エアウェイズに乗り込みヒースロー空港に降り立った。 英語のクラスでは自分以外はすべてバカンス気分のイタリア人。 他のクラスには日本人の大学生も見かけたものの、せっかく海外に来たのだからと、日本人との接触は頑なに避けていたのを思い出す。

20年の間、私の脳は英語で情報処理するようになった。 カーネギーメロン大学での博士課程では新しい知識は英語で学んだ。 就職してから仕事は100パーセント英語。 日本人の友人は数えるほど。 そして米国人の妻と結婚したので家庭でも英語。 そして二人の幼い子供には「お父さん」ではなく”Dada”と呼ばれ、英語で応える。

英語で考えると書かずに、英語で情報処理と書いたのは、実際英語で深い思考ができるのかに疑問があるからだ。 人格をつくるのに役立つような読書は10代、20代に日本語で読んだし、英語で文学、哲学を読むのは本当に疲れる。 一方、この20年の間、日常での体験は99パーセント英語だった。

生まれてから24歳までの日本語生活と10代、20代での日本語での読書と思考、渡米後の英語での日常生活と体験的な学び。 前者と後者は水と油のように混ざり合わず、断絶している不安にわたしは駆られる。

この日記を書き始めた当初は、20代までに培ってその後の英語生活により埋没潜在化した旧人格と、渡米後の英語をしゃべりながら米国社会で生き残るために身についた思考特性の折り合いをどう取るか、そして自分というもの統合性をいかに取り戻そうかという挑戦について書こうと考えいてた。 しかし書きながら、言語相対論の論文なども覗き見していくなかで、人格の断絶というほど極端なことは起こっていないのだろうと思うようになった。むしろ英語での読書の浅さ、それに伴う表現力の乏しさが本当の問題なのかもしれない。

これからも活動の中心が米国であること、そして子供が英語を母国語として育っていく以上、英語で厚みのある議論ができる自分になりたい。それにはかつて日本語で読んだものを含めて、英語で文学、哲学を読みなおす地道な努力は避けて通れない。

20年以上のの在米生活の後、仕事と日常生活以上には英語が身体化していないことを再認識した。 今は残念な状態だが、これからでも遅くはない。地道に積み上げていこうと思う。

Source: 46歳 · Daigo Tanaka