東京都出身の堀江さんは、5歳の時、商社マンだった父親の転勤に伴い、家族でシカゴに引っ越した。地元の幼稚園に通った後、現地の公立小学校に入学。4年生の途中に帰国するまで約5年間、米国で暮らした。
堀江さんの通っていた小学校に日本人はほとんどおらず、友達はすべて米国人。そのため、「気が付いたら英語をしゃべっていた」。中学2年生の時に、再び父親の転勤でニューヨークやアトランタに住むなど、子ども時代は日本と米国を行ったり来たりの生活だった。
通訳になったのは、ほとんど偶然だった。
慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)から慶応義塾大学法学部に内部進学した堀江さんは、「将来は、子ども時代を過ごし、水も合いそうな米国に住みたい」との思いが強く、就職先は、すぐに海外赴任できそうなタイヤメーカーを選んだ。
しかし、仕事に面白さを感じられず2年余りで退職し、欧州車の宣伝を手掛ける小規模な広告代理店に転職した。仕事はまあまあ楽しかったものの、「一刻も早く米国に行きたいとの思いを抑え切れず」、1年で会社を辞め、渡米。仕事のあてはなかったが、グリーンカード(永住権)を持っていたため、「行けば何とかなると思った」という。
しかし、最初はなかなか仕事が見つからず、貯金がすぐに底を突き、高校時代の友人とロサンゼルスでアパートをシェアしながら、アルバイトをするなどして食いつないだ。そのころは、「もともとスポーツが好きで、スポーツのドキュメンタリー番組を見るのも好きだったため、そういう仕事ができるメディア関係の仕事を探していた」という。辛抱強く職探しを続けるうち、日本のテレビ局の仕事を請け負うようになった。