90s生まれミレニアル世代のメモ帳/備忘録

アメリカ東海岸の片隅から、読んだ記事や本で気になった箇所をメモするブログ。

Diddy 歌詞和訳まとめ

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もともとSean “Puffy” Combs、またはパフ・ダディ(Puff Daddy)と名乗っていたこの男、90年代半ばから現在にいたるシーンの中で、HIPHOPをビジネスとして大きくしてきた最重要人物の一人といえる。 A&R、プロモーターにしてイベントオーガナイザーとしてスタートした彼は「ウケる音楽」を見抜く力と、それを商品化する力量で他を圧する人物だ。

ティーンエイジャーのころにはビッグ・ダディ・ケインのバックダンサーをつとめるなどしていたという彼、友人だったヘヴィD(Heavy D)のつてでUptownレーベルのインターンとして働き始める。そこでメアリーJブライジ(Mary J. Blige)やファーザーMC(Father MC)に関わるものの93年に解雇される。同時に23歳にしてBad Boy Entertainmentを立ち上げ、94年にはクレイグ・マック(Craig Mack)とノトーリアスB.I.G.(Notorious B.I.G. / Biggie Smalls)という2人のアーティストと契約。同年クレイグマックの”Project : Funk Da World”をゴールドアルバム(50万枚売り上げ)に、翌年ノトーリアスB.I.G.すなわちビギーのデビューアルバム”Ready to Die”をダブルプラチナム(200万枚売り上げ)とそれぞれ大ヒットさせる。さらにR&Bシーンでも続けてメアリーJのセカンド”My Life”、フェイス・エヴァンス(Faith Evans)やトータル(Total)を見事にヒットさせ、その評価を確かなものにする。

その後Suge Knight率いるDeath Row Recordsとの対立がうわさされるようになり、双方の看板アーティスト、ビギーと2パック(2pac)が相次いで射殺されると一時全面的に活動を休止、長年の友人でもあったビギー・スモールズの喪に服した。彼の追悼曲、”I’ll be missing you”がジャンルを超えてロングヒットとなると、今度は自らアーティストとしての活動を本格化、ビギーのクルーであるジヌア・マフィア(Junior Mafia)やメイス(Mase)らとともにアルバム”No way out”をリリース。ビギーの生前の録音をフィーチャーした”It’s All about Benjamins”などをヒットさせ、話題となる。

その後もBad Boy所属の112(ワントゥエルブ)、メイス、ジュニア・マフィア出身のリル・キム(Lil’ Kim)やビギーのセカンドアルバム”Life after Death”など多数のプロデュース・ワークで成功を収めていく。他レーベルのアーティストではナズ(Nas)、SWV、ファット・ジョー(Fat Joe)などをヒットさせ、プロデューサーとしての存在感を増していった。

右肩上がりに見えたパフィキャリアだが、90年代末には暴力事件の訴訟や、プライベートでのジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)との関係やクラブでの発砲事件など数々のスキャンダルに巻き込まれ、イメージダウンを余儀なくされる。そして2001年、この訴訟で無罪を勝ち取ると同時に彼は自らの名前をPディディ(P.Diddy)に改め、再びその快進撃を開始することとなる。

同年リリースされたアルバム”Saga Continues”からは”Bad Boy For Life”などいくつものヒットを出し、112やアッシャー(Usher)をヒットさせ、メアリーJとのコラボレーションの復活も成功させるなど、トップ・プロデューサーとして活躍を続けている。その一方で、アパレルブランドSean Johnの運営でも成功するなど、事業家としての側面ももっている。

クラブシーンで流行しているものやウケそうなサウンドを見極め、一般ウケしやすいネタ使いや売れているプロデューサーを起用、一方でハードコアなリリックを売りにしたギャングスタ・スタイルのラッパーを使う彼の手法はセルアウト(売れるために大事なものを犠牲にするということ)という批判を常に受け続けてきた。「なにが売れるか」というセンスがあり、その時代の空気をつかむことに長けているのは、誰にも否定できないだろう。

2005年に再度の改名を発表、ディディ(Diddy)と名を略した。

 

歌詞和訳

safariman.hatenadiary.com